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作品のご紹介

聖母の中庭(サークル)

正方形構図


聖母の中庭(サークル)

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聖母の中庭と庭という観念について


とてつもない台風がいくつか過ぎ去り、夏の記憶を根こそぎ抜き去って行った。
夏の花が勢いを失い、そろそろ来春に向けて植木鉢をいじる季節になってきた。
今年の春は、昨秋に植えた水仙や八重のチューリップが思いがけなくちゃんと花開いてくれ、初夏には大輪のカサブランカも開いてくれたことに気を良くして、今年も植木鉢に球根をいくつか植えてみた。
以前花壇に植えたチューリップが全然咲かず、とても残念な春を迎えた記憶があって、球根と私は、相性が悪いのだと思っていた。

季節なら何が好きと聞かれれば、迷わず春と、私は答える。
自分が生まれた季節でもあり、春一番の風が吹いてくると、昔から気分がわくわくしたものだ。
まだ今年はパンジーが出そろわず、小さな植木のスペースは寂しい限りだ。
そんなことを考えていると、数年前に書いた、庭についての文章を思い出した。

最近モチーフとしても、言葉としても気になっているのが、庭である。
昨年は北方ルネサンス期の名前の残っていないライン地方の画家のオマージュとして、聖母の中庭という絵を描いた。
かいつまんでいうと、キリスト教世界での囲われた庭は、修道院の中庭に見るように、一種の天国的概念を現しているらしい。
隔絶された、この世とは違う異空間としての庭が、神に近づくための心を落ち着かせる空間として捉えらえているのかもしれない。
とはいえ庭は、大自然のように、足を伸ばして遠くまで出かけなければならない遠いところにあるわけではなく、日常的に存在する卑近さも持ち合わせている。
庭の中に入る鍵さえ見つかれば、誰でもその空間に存在する事が可能なのだ。

クロイスターとも呼ばれる、その囲われた庭の観念はまた、心、あるいは、神によって生まれ変わった魂の象徴である、内なる人の隠喩とも言われてきた。
騒がしい自己を取り巻く世界の喧騒から逃れた、深く思索の末に持ち得る心の平穏の象徴とも考えられる。
筆を休めるような時間に、庭の写真集を広げて見ていると、世界各国の様々な庭が、目の中に飛び込んでくる。
つげの木を刈り込んで作る迷宮のような幾何学形式の庭や、エキゾチックな植物を植え込んだ、噴水のあがる庭もある。
日本のように石を見立てて思索にふける禅寺の庭もあれば、だだっ広い空間の借景をうまく利用する英国式庭園もある。
こうして見ると庭は、様々な文化が生んだ、人と自然をつなぐ、まさに思索の空間とも言えそうだ。
写し取られた写真の中を心で旅しながら、これらの庭庭に四季の移ろいがあることも気がつく。
庭に春夏秋冬が訪れるように、人の心も絶えずうつろう事に似たような気持ちを覚える。
思索を喚起する庭は、中世以来の心の象徴を、自然を通して体現しているのだ。

聖母の中庭は、迷えるこの時代の不安の中で、鍵を見つければ誰でも入る事の出来る、永遠の安らぎの場なのだ。

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